瀧原宮を後にし、再び大宮大台ICから紀勢自動車道に入り尾鷲へ。こちらの尾鷲神社も歴史のある社ですので参拝し、旅行の安全を祈願しました。
更に南下し花の窟神社と近くにある産田神社を参拝。宗教は祈る対象の祀神があります、キリスト教のような一神教だとキリスト像や十字架などですが日本の神様は多神教なのでトイレや雑巾にも神様はいると言われます。神社などでは祀る御祭神によって天照大神ですと鏡をご神体として祀っていたり、別の神様だと勾玉だったりがご神体ですが狩猟を中心とした群れで移動して暮らしていた縄文時代から、米や麦を育て、家畜を飼い社会生活が成熟していく過程に宗教も生まれた弥生時代と、生活の環境が変わるのと同じように信仰も変わっていきました。初期の御神体は大きな岩や滝、山全体が御神体になったり、神が宿ったとところを石で囲んだ神籬(ヒモロギ)として祀っていました。
この花の窟神社の御神体は巨大な岩、ここの祀神は伊弉諾尊(イザナミノミコト)ですが、神話では火の神の軻遇突智尊(カグツチノミコト)を産んだ時に火傷を負い命を落とします。生んだ場所が産田神社と言われ、葬った御陵がこの花の窟神社と日本書紀に書かれています。
日本を統治している天皇家の初代天皇が神武天皇と言われていますが、もとは九州の一豪族でしたが東へ行けと天啓を受け、一族で船で瀬戸内海を渡り、大阪の難波あたりに着きますが地元の豪族の襲撃を受けます。敵の襲撃は激しく長兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)が流れ矢で傷つき「日の神を祖先とする我が日の昇る東に向けて攻めたのが間違い」と撤収し、紀伊半島を周り上陸したのがこの花の窟神社の北にある二木島町。二木島湾を挟んで西と東にあるのが室古神社と阿古師神社で、祀られているのが神武天皇と一緒に東征した兄の三毛入野命(みけいりののみこと)と稲飯命(いないのみこと)で海の上で嵐を鎮めるのに「私の母は海神である」として入水して荒れた海を鎮めたと伝わります。神武天皇が大和王朝の始まりとすると、船で渡り上陸したこの地の神が、この日本の国作りと天照大神を始めとする神作りの日本神話までたどり、祀られているのが興味深いですね。
神武天皇が生まれたのが紀元前660年と言われていますので、縄文時代の終わり頃、そろそろ稲作が始まる弥生時代との時代との境目でょうかね。神武天皇から15代の応神天皇までは神話ではないかと言われ、実際には3世紀ころ古墳時代初期までの言い伝えなのかもしれませんが、宗教の変遷として祀られる御神体が変わってきたのを目にすると日本の古代史を俯瞰して観ているようで楽しいですね。
産田神社を離れ、熊野那智大社に向かいます。国道42号線はところどころ高速道路として整備されていて、那智のICを降りた頃からポツポツと雨が振り始め、熊野那智大社別宮飛瀧神社に着いた頃には激しく降っていました。
飛瀧神社は改修工事中で見ることが出来ませんでしたが、近くから見る滝は迫力がありますね。スコールのような雨なので昼食を諦め、那智大社近くまでクルマで移動、近くで雷まで鳴る始末。やはりこちらも改修工事中でしたが青岸渡寺を含め参拝し、山を降り新宮の神倉神社に向かいます。
神倉神社と熊野速玉大社は1kmくらい離れていますが、速玉大社の元宮、神武天皇が登り高倉下命から真剣を授かった天磐盾の山と言われています。源頼朝から寄進されたという538段の石段を登ったところにありますが、神社の参道として石段を下から見上げると絶望感を感じます。雨に濡れた険しい石段を登るのはスニーカーでは厳しいですが、降りてこられる女性の足元はなんとパンプス。見ているこちらのほうが怖く感じます。
ゴトビキ岩を支えるように立つ拝殿まで登ると、新宮の街と太平洋が広がり疲れも吹っ飛びます。濡れた石段を登るときよりも注意しながら下り、速玉大社に向かいます。
15時頃に速玉大社に参拝いたしましたが、他に参拝される方もなく神倉神社と熊野速玉大社の御朱印をいただき、宿泊する湯の峯温泉へと向かいました。